明日が待ち遠しい

 

感覚や想いや感情をそのまま吐露してしまうように書く自分の文章に嫌悪感を抱きながらもそう書くことをやめられないままここまでたどり着いてしまったけど最近とても少しずつ自分の文章の生々しさとかまっすぐさとかわかりにくさもまあいいのかなって思えるようになってきた

 

これは成長を止めることとか自分の無駄な肯定とかではなくて、自分が自分である、わたしがわたしとして書く文章を受け入れるということ つまり自分の受容 これが少しずつでき始めるとなんだかいいなって思える小さな笑いとか愛おしさと共に思い切り学びたいとか知りたいとか成長したいとかうまくなりたいっていう衝動が、相反するんだけど降りかかってくる

 

だからいまわたしはとても書きたいのだけど、書くと自分の構成とか文法とかにつっかかりたくなるのと同時にいや~好きなこと書けた気持ちいいなっていうのと両方があってとても混乱してしまうので仕事とその他の手続き諸々でバタバタしてしまっていたこの一ヶ月はあまり書くことに向き合えていなかったんだな

 

でも戻ってきたよ

ことがひと段落して(仕事は相変わらずひどいシフトなんです)いまはとにかく映画と音楽と書物の愛を浴びて過ごしていこうねって自分に言っている

 

明日は『君の名前で僕を呼んで』(Call Me By Your Name2回目へ行ってくるんだけど久しぶりにお気に入りの図書館の下の映画館で、しかも夜の上映で夜の街だから心がいまから踊っているんだ

 

明日が待ち遠しいね

 

mugiho

 

一年が終わるってどういうことだろうね

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あの一年が終わるという絶望や慌ただしさはなくただただとても落ち着いているわたしの2017年最後の日はたくさんのことが一気に降り積もったこの年にふさわしい終わり方なのではないかと思いながら洗濯物を干す。

 

一年が終わるってどういうことだろう。 いままで通りに日は昇るし深夜12時を過ぎたら「明日」になる。 でもその明日はもう2017年ではなく2018年という一年の始まりを意味していてそこにわたしたちは何かを感じるのだろう。

 

一年が終わるけどもわたしは普通にいつもの朝食をとって洗濯を回して部屋を片付けて窓を開けてベッドメイキングをしてノートを開いて机に向かって書く。特別な大掃除もしないしどこかへ行くわけでもない。 もしかしたら人生の中で一番平和で静けさに満ちた一年の終わりかもしれない。

 

一年が終わるということは。 カレンダーを1から12まで全部走り通して12月31日までやってきたということ。365日(あるいは366日)を過ごしたということ。西暦の数字がひとつ増えるということ。自分の年齢に数字が足されるということ。たったそれだけのことなんだけどね。 なにがこんなにもわたしたちの心をかき乱すのだろうか。

 

それにしてもなんて年だったんだろう。
新しい人たちと出会い別れ、大好きな友人たちの言葉に支えられて、自分が嫌で嫌でたまらなくて逃げきれないところまでやってきて。そうしたらわたしの書き方までもが変わってしまうほどの自分の中での自分の存在がぐるっと変わって果たしてそれが良いのか悪いのかはわからないけれどわたしは前よりもずっと自由に好きなことを書いて言えるようになった気がするんだ。

 

惨めだとか恥ずかしいとか悲しいとか寂しいだとかそんなくだらないほどにネガティブと言われることをたくさん書いて書いて書いてそしてそれに対して「別にそれもいいんじゃない?」って言っただけなのに。こんなにも心が軽くなるとは思わなかったよね。

 

まだたくさんの物事の途上に立っていて、ここにくれば達成とかそんな地点はわたしの人生には全然ないんだけどでもいまものすごくどきどきしているのはなぜ。見知らぬ土地へ心を踊らせ、現像待ちの写真への愛を蓄え、好きな人としか会わないよと決めたわたしはどこまでも自由で不器用でわがままなのかもしれない。

 

わたしは決して開き直っているわけではなくて。時間というものが怖くなったのかもしれない。一週間熱が下がらなくて体調を崩して横になって天井を見上げていたとき。時間が限られている、と体全体でこの事実を感じ取った。そこから少しずつ時間の存在が、そして自分自身の存在がいままでとはまた違った方向へ動き出しているのを感じた。そこからまた自分の心を向き合い、自分のどうしようもない心の真っ黒なものたちをひとつひとつ眺めていった。書き出していった。書いていくことと写真と映画はきっとわたしの人生そのものになるだろうと強く強く心が言った。

 

2017年が終わるよ。 一年、ありがとう。

 

mugiho

 

 

寂しがり屋でもいいじゃない?

最近、書いていなかった。

というのは嘘で飛行機でも混乱した心を鎮めるために書いていたし、日本に到着してからバタバタした最初の数日を除いてこちらの合宿が始まってからはほぼ毎日書き続けている。

 

こんなにも書くことが自分の日常の一部になる日が来るなんて思ってもいなかった、というのは何度も書いて言っていることなんだけど本当に昔のわたしを知っている人がいまのわたしの姿を見たら驚くだろう。

 

こうして家族から離れて遠くにひとりで来るのは実は初めてだ。 生まれた頃から毎年のように引越しを繰り返してきて、常に家族単位での移動ばかりだった。それが数年前から家族構成が変わり、そして今年に入ってからはさらに新しい出会いや家族それぞれが違う方向へ進み始めたこともあってわたしにもついにひとりであちこちへ行くという機会があらわれ始めた。

 

今回の日本への一年半ぶりの帰国は車の免許を取るためだ。合宿前後のそれぞれ一週間を祖母と友達の家で過ごすのを除くと二週間ほどの独り暮らしだ。

 

最初はホームシックになるかなととても心配していたのが予想以上にこうしてひとりで暮らすという感覚に喜びを覚えている。

 

朝起きてカーテンを開けて支度をして朝ごはんを食べる。 洗濯をしてベッドを整えて授業の準備をしてから一息ついて出る五分前まで読んで書いて聴く。

 

帰ってきたら洋服をハンガーにかけて窓を開けて空気を入れ替えて洗濯の乾き具合を確かめてお湯を沸かしてお風呂の掃除をして夕飯を並べる。

 

そんな小さな日常のひとつひとつを確認していくように動いていく日々が。

こんなにも心地の良いものだとは思わなかった。

 

いまいる家は自分の本当の家ではないので本とか花とか洋服とかわたしの愛するものたちに囲まれているわけではないのだけど、こうした日常の感覚をさらに自分のものたちと共に体験できると思うと居ても立っても居られない。

 

わたしはとても寂しがり屋だ。

ひとりが好きそう、ひとりでも大丈夫そうみたいなことをよく言われるのだがその人はわたしの半分側だけを知る人。 それぞれが違う部屋で違うことをしながら同じ屋根の下にいたい、と夢見る人間である。ふらっと相手があらわれてふらっといなくなってでも同じ空間にいるということ。

 

ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』で彼女が語る夫ジョン・グレゴリー・ダンとの関係を思い出した。あ、これをこの人に言いたい伝えたいとふと思う瞬間に手の届く空間にその相手がいることというのはすごいことなんだと思った。

 

“During all but the first five months of our marriage, when John was still working at Time, we both worked at home. We were together twenty-four hours a day, a fact remained a source of both merriment and foreboding to my mother and aunts. “For richer for poorer but never for lunch,” one of another of them frequently said in the early years of our marriage. I could not count the times during the average day when something would come up that I needed to tell him. This impulse did not end with his death, What ended was the possibility of response. I read something in the paper that I would normally have read to him. I notice some change in the neighbourhood that would interest him…” 194, The Year of Magical Thinking / Joan Didion

 

“まだジョンがタイムで働いていた結婚最初の5ヶ月を除いて私たち二人はずっと家で仕事をしていた。私たちは1日24時間ともにいた。この事実は私の母や叔母にとって祝福と同時に結婚の破綻の前兆を示していた。結婚当初「富める時も貧しい時も、でもお昼の時は除いて」と彼女らどちらかがよく言っていた。一日に何回彼に伝えないといけないことがあったのか数えられない。その伝えたいという衝動は彼の死と共にはなくならなかった。なくなったのは反応の可能性だ。新聞で彼に読んであげたいと思う箇所を見つけた。彼がきっと興味を示すだろうという近所の変化…」

 

わたしはよくどうでもいいだろうと思うことを話す。

 

それも誰かに話したい。

道端に咲いていた花とか。通り過ぎた猫の表情とか。空の青さとか。バスの運転手さんが新しい髪型になっていたとか。いつもバスですれ違う人とか。こんな写真が撮れたとか。スーパーの列に並んでいた人の話とか。もうすぐ公開する映画についてとか。いま食べたいものとか。

 

きっと人間みんな自分の話を聞いてもらいたいんだ。

わたしだって別に例外じゃないよ。

みんな寂しがり屋なのかもしれない。

 

mugiho

 

 

やってみたこと

 

いままでなら絶対につけなかったようなアイシャドウを思い切って付け始めた。それはピンクとオレンジの狭間みたいな色で意外にもとてもよく似合う。わたしは最初、その色に惹かれて気がつけば手に取っていた。普段まったく化粧をしていなかったのが、いまはどんな色を組み合わせてと考えるのが楽しい。

 

前髪を10年ぶりにつくってみた。

部屋に花を置くのを習慣にしてみた。

 

自分を否定して自己卑下する癖、それ自体をそれでもいいんだと思うようにしてみた。

人見知りだけど、同時に人がとても好きなんだという矛盾に少し笑えるようになった。

 

うまい文章は書けないけど自分が書きたいことを書くように意識し始めた。

未だにとても前に恥ずかしかったことを思い出してはうわって自分の中でげんなりしてしまうんだけど、それはそれでいいんだと思うようにしてみた。

 

わたしと会えるのを楽しみにしていると言ってくれる大好きな友人たちがいることに心からはみ出してしまいそうな幸福を感じる。

 

好きな曲を大音量でかける夜、朝、夕方。

特定の順番になるように丁寧にシャッフルの並びを変更する。

仕事が超絶に嫌だけど、ふと通り過ぎるお客さんたちの笑顔に少しだけ心が安らぐ。

 

帰宅後の75%のチョコレートとミントティーが美味しい。

とても不安定なわたしの心は落ち込む時がとても多くて、いつもいつも下を向いているような気もするんだけど、それでも大丈夫って思ってみるようにした。

 

ポジティブに考えるのはとても苦手。

でも恥ずかしいのも心が痛いのも寂しくて泣きたい気持ちも全部そのままでいいかな〜って思うようにしてみたらなんだか気分がとても軽くなって驚いている。

 

少しずつだけどわたしの在り方が変わってきている気がしている。

その変化はなんだかとても気持ちの良いもので、自分が自分であることにほんの少しだけどいいなって思えるようになってきた。

 

いま思っていることを書いてみた。

 

 

mugiho

 

 

 

 

 

人は面白いほどに話を聞いていないという現実

 

人は面白いほどに話を聞いていない。

結局みんな自分の言いたいことだけ言って相手の話は聞いていない。

聞いているようにみえたら、大抵は半分くらい(もっとかも)流して聞いている。

 

稀にちゃんと聞いている人がいる。そうした人と会話するとすごい、と感心する。あまりにも普段接している人たちとちがう、ちゃんと聞いている、というのが実感としてわかるこの感じ。

 

別に相手にまったく興味がないわけではなくて、でも人間はなんだかんだでみんな自分が一番かわいいわけで、他人に自分を認めては欲しいけど一方では相手をも含めるほどの器は持ち合わせていない。だからお互いに認めてほしいながらも認め合わないまま微妙にすれ違ったままの付き合いという名のコミュニケーションをゆるく取り続ける。

 

わたしはこんな世界は嫌だと叫ぶ。

話を聞いて欲しいときははっきり聞いてほしいんだよね、と言いたいし、逆に相手の話を聞くときは全力で聞きたい。人が目の前に座って自分に言葉を発しているときにちゃんとそこにいたい。大抵の場合、人は相手の話を少しだけ聞きながら次に発する自分の話の予行練習を頭の中で展開させている。だから人の話を「しっかり」聞けることってすごい強みになると思うのだ。

 

あまり人と会わないわたしでもこんなにも人は人の話を聞いていないものなのかと実感するのだから他の人たちはもっともっと感じているかもしれない。

 

そして話が弾む関係というのは、お互いのこのバランス感覚が絶妙に合っていて、そしていて無理をしていない。どっちかが我慢ということはなくてそれぞれの発言が相手の世界を揺さぶり、その揺さぶられた世界から発せられるものに次にもう片方が揺れる。

 

揺れる世界をわたしは体験したいし、体験させたい。

人の話を聞くのもたまにはいいものだよ。

 

mugiho

 

徒然月曜日

ふと書こうと思い立ってこんな風に何も考えずに何かを書くの、なんて久しぶりなんだろう。

 

さてニュージーランドは9月末からサマータイムがはじまって時計を1時間進めました。この時期がくると、ああもうすぐ夏が始まるんだとすごく確かな実感、形のある感覚として季節が変わる。いまだに1時間先に進んだ時計に体のリズムがついていかない。もうそろそろ暖かくなってもいい時期なのにここのところ一日に嵐みたいな雨が降って、次の瞬間太陽燦々の繰り返しで先週体調を崩してしまった。

 

いま私の部屋の左側にある窓からは青空に漂う雲と強風に揺らされる木々と降ったり止んだりの雨、全部がある。なんて天気だ、外へ出たくない。

 

今日は午後から仕事だ。

仕事へ向かうのはいつもバスなんだけど、新居に引っ越してからバス停まで少し遠くなった。と言っても5分ほどなんだけど家をでて少し中の方に入った住宅街からの緩やかな坂を登ってバス通りに出る。左に曲がって少し歩くと右手に橋の向こう側に広がるオークランドの中心地が見える。スカイタワーがまっすぐにその街並みのど真ん中に君臨しているのか見える。この眺めが好きだ。そして歩いて前方の少し右手に今度は海が見える。雲と水平線が重なっているみたいで、その間にきらきらとした線が入る。海だ。

 

この国に来てから、海がとても近くなった。

いままで暮らして来た場所たちはずっと内陸、山奥だった。

車を10分も走らせれば立派なビーチにたどり着くことにいまだに驚く。

自分の部屋の窓から海が見えることに毎朝感激している。

 

今日は風がとても強い。

仕事へ行く前に紅茶をすする。

今年末にここ2年ほどの書き物を編集してみなさんに届ける予定なので今日から本格的な編集作業にはいった。自分でこんなことを書いていたのか、こんなことをあの瞬間に思っていたのか。読めば読むほどに自分の未熟さを痛感しながらも同時に自分はこうして生きていたのだなと実感をつかむ。

なんて作業だ。

 

mugiho