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続けていくこととはつまり...

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昔から「続ける」ということが苦手だった。

習い事も日々の日課や習慣もだんだんと途中で飽きてきてしまう。

三日を超えて無事習慣へ昇格したと思ってすぐにまた途切れて、

それは噛み切りすぎた麺みたいに、ブツブツと短い線でいっぱいになった器。

 

生まれてからこのかた10回以上の引っ越しと転校を繰り返してきた

自分にとって「変化」や続かないものというのは当たり前、日常になっていた。いくら別れを惜しもうが、そこで友達作りやクラスに馴染もうと努力したって結局はその後変わるんだし、共に成長し続けることもきっとこの先会うこともないんだし、と物事に対して諦めという態度を持つようになっていた。結局は無駄じゃないか、それなら心労抱えて頑張る必要はないと。

 

自分の意志力すべてをこの生活環境のせいにするわけではないが、子供というのは生まれる環境を選べないものでこのように私たちは知らず知らずのうちに人生そのものに対する姿勢というのを形成していくのだろうと思う。

 

でもだんだんとこの生活を繰り返していくうちに自分の生活や心の中で変わらないものというものが浮かび上がってきた。それは本や言葉への愛。常に共にある音楽。映画という窓。そして近年得た自分の軸となる「書く」こと。新しい場所。新しい人たち。新しい学校。周りがいくら変わろうと自分の中にくすぶるこれらへの愛は揺らがなかった。むしろ私の心はこれを大きな支えとしてその変化の中で何とか立っていた。

 

続けていくこと。それは「続けられること」と出会うことなのだ。つまり続けていくこと、それは自分の重い腰をそのベクトルへ向かわせようと努力やシステムによってなんとかしようとすること。続けられること、それは自然にやってしまうこと。やらずにはいられないこと。努力という言葉をそれに付着させたくないもの。それは愛。

 

ただそれだけ。


mugiho

世界観の違いとはなにか『読書について』小林秀雄

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いましばらく考えていた「世界観の違い」の類について書き連ねているのですが、読んでの通りなんだかリズムが敬語なのです。いままではこんな文章書いたことも書こうとも思ったことないのですが、いま書いているエッセイ、気づいたらこんな感じになりました。

 

小林秀雄の『読書について』を読んでいるのですが、その中に「書くことと喋ること」という章があります。喋ること、書くこと、グーテンベルクの大発明以来それぞれの担う役割が大きく変化し、そのもの自体の在り方が変わりました。

 

今日の様な大散文時代は、印刷術の進歩と話しては考えられない、と言う事は、ただ表面的な事ではなく、書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。

 

 

書物の担う役割、昔は空で覚えていた事柄を確認するための一種の道具でした。それが現代、巨大な資本主義マーケットにおける商品となり、それによってそれらを書く「作家」という職業そのものも変わりました。同じものであるのにその「意味」というものは歴史という時間の世界の違いによってまったく違うものと化する。世界観の違いはなんでも、違う人間同士という意味だけではなくて文化や時間など決して数字では測ることのできない存在の中にもたくさんあるのです。

 

“作家は自分の裡に理想的読者を持つ。書くとは、自ら自由に感じ考えるという極まり難い努力が理想的読者のうちで、書く度に完了すると信ずる事だ。” - pg105-106

 

“印刷の進歩は、文章からリズムを奪い、文章は沈黙してしまったと言えましょう。散文が詩を逃れると、詩もまた散文に近づいてきた。” pg110

 

“散文は人の感覚に直接訴える場合に生ずる不自由を捨てて、表現上の大きな自由を得ました。” pg110

 

 

特定の時代にしか生きることのできない私たちはひとつの価値観を得ます。時代を超えてその時の感覚をそのまま体験することというのはとても難しいものです。いくら技術が発達してその時代をうまく模倣して再現することができたとしてもそれはどうしようもないくらいに空っぽで違うものになってしまいます。その時に生きていた人たちの現実は永久にそこにしかないもので、その時の時代性・政治・文化などから空気や気候まで。それはその瞬間にしかあり得なかった世界です。そんな違う世界、そのひとつ前の時代、あり得ないと思うその感覚はその時代を生きる人たちにとっては疑いようもない真実であったのです。

 

世界観の違いはいまだけに起こるものではなくてあらゆる次元、物理的、精神的、時間的な世界で同時に起こっているものなのです。世界の違い、についてしばらく書いていたら小林秀雄の文章にぶち当たり、しばらく考えていました。

 

世界が違うから面白いんだよな、と私はよく思いますが時には素直にそう思えない、自分に不快な世界を垣間見させられるとそれは違うと思い切り反論したくなる時もあります。きれいに理論や信念通りに自分は動けると信じていても人間、感覚や思いに触れる何かには大きく反応してしまうものです。

 

と、そんなことを連想させながらこの世界、やっぱり広いなとその壮大さに圧巻と恐怖を抱きながら生きてます。

 

mugiho

東京が恋しくなる時、それは雨の日

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人が行き交うのを眺めるのが好き

とんでもない人混みを鳥のように上から眺めて

 

交差点の色が赤から緑へ

緑から赤へと変わるのを

ひたすら繰り返し見ているだけなのに

 

そこを行き交う人たちは刻々と変化し

真っ白に塗られた線はなんだかとても眩しくて

段々と街の色が変わっていくのは私には関係ない

と言わんばかりにひたすら真っ白でいる

 

蛍光灯みたいに光っていた太陽も

時間が経てば夕方に顔を出してくる

夜の始まりにバトンを渡す

 

今日もお疲れ様

これからまた一仕事するか

そんなやり取りを知るのか知らないのか

 

人々は歩いてゆく

すれ違っていく

交差点はとても不思議な場所だよね

 

人間があんなにたくさんすれ違うのに

それは物理的なことだけで

心の距離はどこまでも遠くて

 

っていうのは当たり前なのかもしれないけれど

(だっていきなり知らない人に話しかけるわけに

いかないじゃんね?少なくとも自分はしない)

 

なんだか時々とてつもなく寂しくなる

 

それでもやっぱり街が好きで

人がぐわーって駆け抜けていく交差点と

地下鉄とビルの中と電車の乗り降りと

 

雨の日は東京がとても恋しくなる

 

 

mugiho

 

 

 

結局

Words

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泣きたい日も泣けない日も

笑いたい日も笑えない日も

目を覚ましたい日

ずっと目を閉じていたい日

 

毎日が同じ

明日も同じ

今日も同じ

 

同じ道を通って

同じバスに乗って

同じ本屋さんに寄って

同じ空を見上げる

 

暮らしという繰り返しは

生きていることなのか

 

あるいは何処へも行けない

もどかしさなのか

 

その答えを得られないまま

また今日も起きて 明日も起きる

 

目の前にあること

なぜそれを選んだの?

選んだのは誰?

誰のせいにもできない

 

だってすべて

結局は

選択したのは

 

自分だった

 

 

mugiho

 

 

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌

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インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 (2013)

監督・脚本: ジョエル・コーエンイーサン・コーエン
撮影 ブリュノ・デルボネル

 

その影が彼を飲み込んでいくとき。

狭い路地裏で思い切り殴られて横たわっている姿を目の当たりにして、これはハッピーな成功物語ではないと何となくだけど感じる。それでもこの映画の隅々までが自分の中に入り込んできてその青くてグレーで暗い背景はいつのまにか歌い続けるルーウィンの姿でいっぱいだった。


二人で歌ってきたのにある日突然いない。パートナーの死を未だに受け入れることができずに、記憶と過去の狭間を行き来する毎日。共に歌ってきたマイクの死についてルーウィンによって触れられるシーンはほとんどないにも関わらず彼の存在というものがあちこちに散りばめられているのはなぜだろうか。ルーウィンが歌い、その声からそして歌い続けるのは。彼の存在を少しでもどこかに感じていたいからなのか。

 

と、あるところから猫が登場する。お世話になっている教授の猫なのだがなぜかとても懐かしい。部屋から出てしまったところからルーウィンと共に行動するようになるうちに何だかいつも一緒にいたような心地よさ。猫を通して見える外の人々との繋がり。観ているとだんだんともしかしたら?という疑問を持ち始める。あるところで自分の中で「!」ひらめく。そうだ、この猫はマイクなのだと。そうだ、彼なんだ。知らないのに、見たこともなのになぜだろう。でもわかる。不器用でいつも何だか迷ってばかりでどこへ行けばいいんだろう、どうすればいいんだろう、少し頑固なんだよ、ゆっくり外の世界とつなげてくれる。そして気づけば自分も、ルーウィンとおなじくらいにマイクが恋しくて、寂しくて、そう物語の中に引きずり込まれている。

 


Oscar Isaac - Fare thee well Orignal soundtrack (Inside Llewyn Davis)

 

たった数日の間の話にも関わらず、雪が降って雨が降ってシカゴまで行って帰ってきて会わないだろうと思っていた人と再会して自分と同じように音楽と共に何とか暮らしている同志たちに会って、少しずつだけど何かが動き始めているのを感じながら始まりは最後になって、それは終わりから始まる出発という物語でそして彼は決して終わらないんだよ、歌い続けるんだ。荷物を何回投げ出されようが何度でもギターケースを開けて何度でもステージに立ち続けてそしてなんとか大丈夫なんだっていうその根拠のない自信があるから自分もとてつもなくこの作品が大好きで、諦めきれなくて結局なんとかその悲しくて楽しい記憶と生き続けていく。


その細長い廊下は彼の短くて長い旅そのもので、望遠鏡みたいに小さくて大きくて複雑に絡み合ったその心を覗き込むような旅路で、その廊下の先には音楽が待っているんだって。

 

そして、オスカー・アイザックの声が信じられない。

くらいに最高すぎてもう。はい。この通り言葉がないです。 

 

muuu

 

P.S 英語版レビューはこちら

https://mugiho.wordpress.com/2017/01/07/inside-llewyn-davis-2013/

 

メモ:この物語は実在した60年代に活躍したフォークシンガーDave Van Rockの回想録「The Mayor of MacDougal Street」からエッセンスを取り出して書かれている。ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジ、フォークの最盛期について。

グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃―デイヴ・ヴァン・ロンク回想録

 

明けました。

 

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明けました。

新年早々海へ散歩に。昨日から続く今日、年を越したのに何も

変わらずに日常が流れていたことに何でかとても感動して

海辺をいつも通りに散歩する老夫婦に海ではしゃぐ家族たちに

真っ赤に日焼けしながら本を読むおじいさんに。とても平和でした。

年が明けたなんてとても思えない今日は一年の初めの日で、これから

364日が過ぎていくんだと思うとその可能性に心が踊ったり。

 

新年の抱負、といきたいところなんですが。

何だか今年、ただただ「とんでもない一年になる」

というのしか感じることができなくて具体的にやりたいこと

成し遂げたいこと行きたい場所というのは山のようにあって

でもそれは自分のモレスキンの中にしまっておこうと。

 

目標や計画があればそれに向かって前進していけると思うかも

しれなくて、自分自身計画や目標というものが異常に好きで

いつも何かを始めるときはこれに一番時間をかけてきました。

でも今年はとても抽象的なものしか自分の中に出てこない。

それと同時に「こんな風に生きたい」という一年だけの抱負で

終わらない自分の哲学的な生き方みたいなものが欲しくて、

それを試行錯誤して見つけていくみたいな一年にしたいかも。

といま書きながらわかりました、書きながら思いついた笑

 

ブログ映画読むこと書くことこれは基本セットとして呼吸のように

自分の一部となっていくだろう一年にしたいと。あとは好きなように

生きること。ただそれだけ。自分のやりたいことをやる。行きたい場所

会いたい人たくさんあるんだから自由に飛び回るチャンスがあるんだから。

 

2017年もまた楽しく生きようね。

 

 

 

 

muuu

 

 

初zine『somewhere』

 

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一年のまとめなんかじゃ振り返れないほどにここ一年半くらい、自分にとっては激動でした。そしてその激動の中に包括されるようにして大きな停滞とか迷いというものがあってそれらは積もりに積もっていまの自分になりつつあるという感覚です。

 

だから今年が〇〇でっていう風にコンパクトにまとめることができなくて、

かと言って何も変わっていないわけではなくて、確かに変わっている。

 

そんな小さな感覚をまとめた初めてのzineをつくってみました。

つくってみたというクオリティなんかからはかけ離れていてあいにく家のプリンターが壊れてしまって(?)印刷もできない状態なのでPDFかePubのデジタル形式で読みたいという読者の方たちに配布しようと思いました。ここ一年半くらいの自分のかけらみたいなものがここに少しずつ入っているというような感じかな。

 

2016年もいい年だった。

来年はよくわからないけど「やばい」っていうゾクゾク感がしています、なぜか笑 それは明けてからのお楽しみとでも言えばいいのか。なんだか少しずつ生きるのが楽しくなってきました。感覚と嫌なくらいに向き合って見えてきたのものがある。それが微かな自信、自分の存在を信じるきっかけになっている。自分が歩く道、他者と共に歩く道、たくさんの景色が脳裏をよぎる。行きたいところには行ける。想像さえできれば。言葉の持つ力を、そして他者との関係性によって存在する自分の部分を軽視してはならない。

 

いつもこの感覚を読んでくれている方に感謝の気持ちを込めて。

 

muuu

 

 

P.S zineご希望の方にはPDFかePub形式でお送りします。下記のメールアドレスにお名前と希望フォーマット(PDF or ePubePubiBooksや一部のereaderで開けるファイル形式です)を記載してください。各自で印刷してもらう場合には「小冊子の印刷」という設定で両面印刷してもらうと表紙・裏表紙含めて24ページ構成で紙の枚数は6枚になります。綴じ方は「左」の選択をお願いします。印刷後二つ折りで中綴じで完成です。詳細は下記の参考サイトから

 

参考サイト 小冊子の印刷 (Acrobat/Adobe Reader)

 

email→somewherethere.379@gmail.com