寂しがり屋でもいいじゃない?

最近、書いていなかった。

というのは嘘で飛行機でも混乱した心を鎮めるために書いていたし、日本に到着してからバタバタした最初の数日を除いてこちらの合宿が始まってからはほぼ毎日書き続けている。

 

こんなにも書くことが自分の日常の一部になる日が来るなんて思ってもいなかった、というのは何度も書いて言っていることなんだけど本当に昔のわたしを知っている人がいまのわたしの姿を見たら驚くだろう。

 

こうして家族から離れて遠くにひとりで来るのは実は初めてだ。 生まれた頃から毎年のように引越しを繰り返してきて、常に家族単位での移動ばかりだった。それが数年前から家族構成が変わり、そして今年に入ってからはさらに新しい出会いや家族それぞれが違う方向へ進み始めたこともあってわたしにもついにひとりであちこちへ行くという機会があらわれ始めた。

 

今回の日本への一年半ぶりの帰国は車の免許を取るためだ。合宿前後のそれぞれ一週間を祖母と友達の家で過ごすのを除くと二週間ほどの独り暮らしだ。

 

最初はホームシックになるかなととても心配していたのが予想以上にこうしてひとりで暮らすという感覚に喜びを覚えている。

 

朝起きてカーテンを開けて支度をして朝ごはんを食べる。 洗濯をしてベッドを整えて授業の準備をしてから一息ついて出る五分前まで読んで書いて聴く。

 

帰ってきたら洋服をハンガーにかけて窓を開けて空気を入れ替えて洗濯の乾き具合を確かめてお湯を沸かしてお風呂の掃除をして夕飯を並べる。

 

そんな小さな日常のひとつひとつを確認していくように動いていく日々が。

こんなにも心地の良いものだとは思わなかった。

 

いまいる家は自分の本当の家ではないので本とか花とか洋服とかわたしの愛するものたちに囲まれているわけではないのだけど、こうした日常の感覚をさらに自分のものたちと共に体験できると思うと居ても立っても居られない。

 

わたしはとても寂しがり屋だ。

ひとりが好きそう、ひとりでも大丈夫そうみたいなことをよく言われるのだがその人はわたしの半分側だけを知る人。 それぞれが違う部屋で違うことをしながら同じ屋根の下にいたい、と夢見る人間である。ふらっと相手があらわれてふらっといなくなってでも同じ空間にいるということ。

 

ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』で彼女が語る夫ジョン・グレゴリー・ダンとの関係を思い出した。あ、これをこの人に言いたい伝えたいとふと思う瞬間に手の届く空間にその相手がいることというのはすごいことなんだと思った。

 

“During all but the first five months of our marriage, when John was still working at Time, we both worked at home. We were together twenty-four hours a day, a fact remained a source of both merriment and foreboding to my mother and aunts. “For richer for poorer but never for lunch,” one of another of them frequently said in the early years of our marriage. I could not count the times during the average day when something would come up that I needed to tell him. This impulse did not end with his death, What ended was the possibility of response. I read something in the paper that I would normally have read to him. I notice some change in the neighbourhood that would interest him…” 194, The Year of Magical Thinking / Joan Didion

 

“まだジョンがタイムで働いていた結婚最初の5ヶ月を除いて私たち二人はずっと家で仕事をしていた。私たちは1日24時間ともにいた。この事実は私の母や叔母にとって祝福と同時に結婚の破綻の前兆を示していた。結婚当初「富める時も貧しい時も、でもお昼の時は除いて」と彼女らどちらかがよく言っていた。一日に何回彼に伝えないといけないことがあったのか数えられない。その伝えたいという衝動は彼の死と共にはなくならなかった。なくなったのは反応の可能性だ。新聞で彼に読んであげたいと思う箇所を見つけた。彼がきっと興味を示すだろうという近所の変化…」

 

わたしはよくどうでもいいだろうと思うことを話す。

 

それも誰かに話したい。

道端に咲いていた花とか。通り過ぎた猫の表情とか。空の青さとか。バスの運転手さんが新しい髪型になっていたとか。いつもバスですれ違う人とか。こんな写真が撮れたとか。スーパーの列に並んでいた人の話とか。もうすぐ公開する映画についてとか。いま食べたいものとか。

 

きっと人間みんな自分の話を聞いてもらいたいんだ。

わたしだって別に例外じゃないよ。

みんな寂しがり屋なのかもしれない。

 

mugiho

 

 

やってみたこと

 

いままでなら絶対につけなかったようなアイシャドウを思い切って付け始めた。それはピンクとオレンジの狭間みたいな色で意外にもとてもよく似合う。わたしは最初、その色に惹かれて気がつけば手に取っていた。普段まったく化粧をしていなかったのが、いまはどんな色を組み合わせてと考えるのが楽しい。

 

前髪を10年ぶりにつくってみた。

部屋に花を置くのを習慣にしてみた。

 

自分を否定して自己卑下する癖、それ自体をそれでもいいんだと思うようにしてみた。

人見知りだけど、同時に人がとても好きなんだという矛盾に少し笑えるようになった。

 

うまい文章は書けないけど自分が書きたいことを書くように意識し始めた。

未だにとても前に恥ずかしかったことを思い出してはうわって自分の中でげんなりしてしまうんだけど、それはそれでいいんだと思うようにしてみた。

 

わたしと会えるのを楽しみにしていると言ってくれる大好きな友人たちがいることに心からはみ出してしまいそうな幸福を感じる。

 

好きな曲を大音量でかける夜、朝、夕方。

特定の順番になるように丁寧にシャッフルの並びを変更する。

仕事が超絶に嫌だけど、ふと通り過ぎるお客さんたちの笑顔に少しだけ心が安らぐ。

 

帰宅後の75%のチョコレートとミントティーが美味しい。

とても不安定なわたしの心は落ち込む時がとても多くて、いつもいつも下を向いているような気もするんだけど、それでも大丈夫って思ってみるようにした。

 

ポジティブに考えるのはとても苦手。

でも恥ずかしいのも心が痛いのも寂しくて泣きたい気持ちも全部そのままでいいかな〜って思うようにしてみたらなんだか気分がとても軽くなって驚いている。

 

少しずつだけどわたしの在り方が変わってきている気がしている。

その変化はなんだかとても気持ちの良いもので、自分が自分であることにほんの少しだけどいいなって思えるようになってきた。

 

いま思っていることを書いてみた。

 

 

mugiho

 

 

 

 

 

人は面白いほどに話を聞いていないという現実

 

人は面白いほどに話を聞いていない。

結局みんな自分の言いたいことだけ言って相手の話は聞いていない。

聞いているようにみえたら、大抵は半分くらい(もっとかも)流して聞いている。

 

稀にちゃんと聞いている人がいる。そうした人と会話するとすごい、と感心する。あまりにも普段接している人たちとちがう、ちゃんと聞いている、というのが実感としてわかるこの感じ。

 

別に相手にまったく興味がないわけではなくて、でも人間はなんだかんだでみんな自分が一番かわいいわけで、他人に自分を認めては欲しいけど一方では相手をも含めるほどの器は持ち合わせていない。だからお互いに認めてほしいながらも認め合わないまま微妙にすれ違ったままの付き合いという名のコミュニケーションをゆるく取り続ける。

 

わたしはこんな世界は嫌だと叫ぶ。

話を聞いて欲しいときははっきり聞いてほしいんだよね、と言いたいし、逆に相手の話を聞くときは全力で聞きたい。人が目の前に座って自分に言葉を発しているときにちゃんとそこにいたい。大抵の場合、人は相手の話を少しだけ聞きながら次に発する自分の話の予行練習を頭の中で展開させている。だから人の話を「しっかり」聞けることってすごい強みになると思うのだ。

 

あまり人と会わないわたしでもこんなにも人は人の話を聞いていないものなのかと実感するのだから他の人たちはもっともっと感じているかもしれない。

 

そして話が弾む関係というのは、お互いのこのバランス感覚が絶妙に合っていて、そしていて無理をしていない。どっちかが我慢ということはなくてそれぞれの発言が相手の世界を揺さぶり、その揺さぶられた世界から発せられるものに次にもう片方が揺れる。

 

揺れる世界をわたしは体験したいし、体験させたい。

人の話を聞くのもたまにはいいものだよ。

 

mugiho

 

徒然月曜日

ふと書こうと思い立ってこんな風に何も考えずに何かを書くの、なんて久しぶりなんだろう。

 

さてニュージーランドは9月末からサマータイムがはじまって時計を1時間進めました。この時期がくると、ああもうすぐ夏が始まるんだとすごく確かな実感、形のある感覚として季節が変わる。いまだに1時間先に進んだ時計に体のリズムがついていかない。もうそろそろ暖かくなってもいい時期なのにここのところ一日に嵐みたいな雨が降って、次の瞬間太陽燦々の繰り返しで先週体調を崩してしまった。

 

いま私の部屋の左側にある窓からは青空に漂う雲と強風に揺らされる木々と降ったり止んだりの雨、全部がある。なんて天気だ、外へ出たくない。

 

今日は午後から仕事だ。

仕事へ向かうのはいつもバスなんだけど、新居に引っ越してからバス停まで少し遠くなった。と言っても5分ほどなんだけど家をでて少し中の方に入った住宅街からの緩やかな坂を登ってバス通りに出る。左に曲がって少し歩くと右手に橋の向こう側に広がるオークランドの中心地が見える。スカイタワーがまっすぐにその街並みのど真ん中に君臨しているのか見える。この眺めが好きだ。そして歩いて前方の少し右手に今度は海が見える。雲と水平線が重なっているみたいで、その間にきらきらとした線が入る。海だ。

 

この国に来てから、海がとても近くなった。

いままで暮らして来た場所たちはずっと内陸、山奥だった。

車を10分も走らせれば立派なビーチにたどり着くことにいまだに驚く。

自分の部屋の窓から海が見えることに毎朝感激している。

 

今日は風がとても強い。

仕事へ行く前に紅茶をすする。

今年末にここ2年ほどの書き物を編集してみなさんに届ける予定なので今日から本格的な編集作業にはいった。自分でこんなことを書いていたのか、こんなことをあの瞬間に思っていたのか。読めば読むほどに自分の未熟さを痛感しながらも同時に自分はこうして生きていたのだなと実感をつかむ。

なんて作業だ。

 

mugiho

 

 

 

VSCOはただの写真加工アプリではないんだ、物語の世界なんだよ。

 

f:id:muuu295:20170918193048p:plain

 

VSCO(発音は“ヴィスコ”)

2011年 オークランドカルフォルニアからはじまったこの写真アプリはただのアプリではない。アートテクノロジー企業と名乗るVSCOは現在、全世界で月間3000万人のユーザーを誇り、Instagramには#vsco #vscocamのハッシュタグがそこらじゅうに散らばっている。

 

フィルム写真の質感をうまく取り入れ、あらゆる手触りの写真を体感できるこのアプリは普段何気なく、そしてとても簡単に撮れてしまう「写真」の世界をより「なにか」として存在させようとしている。

iPhoneスマホのプロ写真家として活躍する層のかなりの人数がこのアプリを使用しているという。

 

しかしVSCOが目指したかったのはもっと近くにあったようだ。

ここ2-3年の間に、いままでとはちがう写真の居場所をつくりあげてきた。それは同時に起業した時の理念に立ち戻ることであり、創造性の原点に帰るコミュニティを提供することだった。

 

As humans, we’re compelled to create. It’s in our DNA. It may not always be pretty, it may not always be easy, but it’s our fundamental response to life. Creativity isn’t limited to an artistic class; it’s the radical expression of each person’s voice in this world. It takes different forms, a mad juxtaposition that reflects the individual’s own unpredictable, winding path. It isn’t limited to the polished aspects of life, but embraces all facets of human existence, the ups and downs, the loud and quiet.

 

- 人として、わたしたちは創造しないではいられない。

それはDNAに刻まれていて、決して楽な道ではないしいいことばかりではありません。でも、それは生きることへの反応。創造性は芸術教室に限定されたものではなくて、一個人の声を世界へ表明するひとつの表現方法です。それは様々な形をとり、それぞれの予期することのできない曲がりくねった人生と一緒に並んでいます。人生のきれいな部分だけではなくて、存在することそのもの、良いことも悪いことも、嵐も静けさもすべてが含まれます。

- VSCO A Community for Expression 

 

VSCO Gridと呼ばれるそのプラットフォームはSNSではない。

コメントボタンもリツイートボタンも存在しない。

- VSCO isn't playing Instagram's game, but it’s still thrivingより

 

 

そこにあるのは写真を通して語られる物語だけだ。

最初はCollectionと呼ばれ、関連写真をひとつの作品として編集して集めていく機能だけだったのが新しくできたJournalの項目によって写真に言葉も加えることが可能になった。

vsco.co

 母親の癌の闘病記をこのコミュニティで公開した“My Mother”と題された日記が頭から離れない。母親が癌宣告を受けてから刻々と病が進行していく、その視覚的な物語とそれぞれの写真に記された数行。家族が集まってくる、生きることってこんなにもはっきりと刻まれているのか、写真とは。伝えること、語ることとは。

 

 

f:id:muuu295:20170918194000p:plain

 

Jasmine Roseという写真家へのインタビュー

VSCO Gridではあらゆるクリエイターたちと組んでプロジェクトを立ち上げたり、インタビューなどを公開している。すべてがどんどんつながって、世界が広がっていく確かな手応え。

 

 And pain, phew, sometimes things just hurt so much that they inspire you to wanna do something. To get out your funk and go capture something, write something, visualize something, talk to someone about something. To just create, something. Whether it be through words, music, movement etc. It doesn’t matter, it’s the creating and the ability to create/share the story that pushes me.

 

そして痛み。

ああもう痛すぎて。でもそれが何かを創造するインスピレーションになるの。やけになって外に出て行って何か撮ったり、書いたり、映像化した、誰かと何かの話をする。ただ“なにか”を創造するだけ。それが言葉や音楽や動きを通してかは関係ない。その創造するっていう行為そのもの、そして創造してその物語を共有できるっていうことがわたしを動かすの。

- Jasmine the Creator 

 

 

創造することとは。

それは生きることそのものであると宣言するこの写真プラットフォームはこれからの写真やSNSのあり方を面白い方向へ引っ張っていってくれそう。そこで表現するわたしたちはより自由に写真の世界を舞うことができるのかもしれない。

 

 

mugiho

 

参考記事:

Famous Instagrammers we talked to all swear by this one photo editing app

VSCO isn't playing Instagram's game, but it’s still thriving

Jasmine the Creator | wethecreators | VSCO

大学に行けなくて嫌だったこと

f:id:muuu295:20170907153212j:plain

 

周りの友人たちが大学生活を満喫する中、

自分は大学へ行けないという事実にコンプレックスを抱いていた

とずっと思っていたのだが、そうではなかった。ちがう。

 

わたしは何度も大学に行き損ねている。

高校生だった時、理系選択で工学部目指していた。

その後、高校途中からニュージーランドへ留学して、都市計画を学びたいと思うようになった。大学に合格したのはいいものの経済的事情で帰国。

 

日本で受けられる大学がなかった。 家庭環境もボロボロだった。これからわたしはどこへどう進んで行けばいいのだろう。1年間何もできなかった。母が見かねてなんとか受けられるところと言って、私大を受けさせてもらった。なんとか入学できたものの、そこは到底体系的に物事を学べる場所ではなかった。1年で辞めてしまった。

 

その後はひとりで読んで書いての日々だ。

周りに哲学とかカオス理論について喋りあえる人はいない。

寂しかった。 いまもなお。

 

大学に行けなくて何が嫌だって?

体系的に物事を学びたいと思っていた自分の知識があちこちにバラバラ浮遊しているのが嫌なのだ。がっつり話すときにそれらが一か所に留まらないで勝手に歩き回っているのが嫌だ。まだ微妙にその知識とか情報とか思想が自分の中に落とし込めていないその慣れない感じが嫌だ。書いたり読んだりしたことを話し合ったり、その分野を極めた人と直接話せないのが嫌なのだ。

 

言葉が走り回って、たくさんの分野が一か所に存在しているあの空間に身を置いてみたいのだ。図書館の静けさとか終わりのないエッセイとリーディングの波に揉まれたい。わたしは純粋に知識と対話できる場所、そしてそれらが挑戦してくる場を求めているだけなのだ。

 

学歴という名が欲しいのではなくて。

わたしはただただ学べる場所が欲しい。

ただそれだけで、それが大学に行けなくて嫌なことだ。

 

mugiho