映画はつまり愛

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映画を観るのが怖くなる時がある。

その理由についていろいろ考えていたのだが、これと

言った答えにんたどり着かないまま夜になってしまった。

 

映画とはなにか。

そこから問い始めるともうどこから始めてどこで終わればいいのか到底わからないからいま自分の範囲での映画の存在について思うと、それは自分の一部であり日々の糧であり、世界への架け橋と窓であり、そして自分自身の井戸へ降りていく階段である。

 

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時間に置いていかれる恐怖

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時間に置いて行かれるのが怖い。

永遠に続くと思っていた小学生の頃の夏休みとか。

進路について希望を迫られる(それってそもそも希望なの?)と

選択にかける時間というものがもう残りわずかなことに気づくときとか。

怖くて怖くて走り続けて来たけど時々ふと立ち止まってみて、

ああ自分はまだこんなところまでしか来ていないじゃないかという絶望。

 

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永遠に同じ曲を聴いていられるタイプなんだ。

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一度自分の感覚やリズムに編み込まれてしまうとその音は自分の一部となる。

 

自分の中に形成途中のところに絶妙なタイミングで潜り込んでくるとき。

全く外から予想もしていない時にふと落ちてきた音がそのまま新たな部分として自分にくっついてそのまま共に風化していくとき。

 

音楽と出会う方法が時代の流れで著しく変化したいまでも変わらないのは音楽が私たちの元にふと(なんらかの形で)やってきて感覚や在り方に寄り添って、そしてそのまま「わたし」の一部となっていくということ。

 

どんな時代に何をどう聴いていよう、どこから聴こえてこようと音楽はある特別な瞬間を拾い上げてふと私たちの遺伝子の中に放り込まれてしまう。そうしたらもうそれは単なる音楽とかお気に入りの曲とかそんな言葉では言い表すことのできない存在になる。

 

そんな音楽と出会う機会はこの一生に何回くらいあるのだろうか。

 

考えながらこの記事を書くのに既に7回リピートした曲がある。

あらゆる音楽が生み出され「消費」されていくこの世界でそれでも少し時間が経って興奮が収まって霧が晴れて意識がはっきりしてきた時に向かう場所が、向かう音楽がある。

 

それが永遠に聴いていられる一曲。自分のリズムの一部。

 

mugiho