06102021|昨日のこと、今日話したこと

0610 木曜日

昨晩は夜10時から1時まで今年初めて参加することになった、RAU 都市と芸術の応答体 2021の定期ミーティングがあったので久しぶりに参加した。前回は大学の課題に追われていてまともな精神ではなかったのでお休みしていたので1ヶ月ぶり?(二週間に一度のミーティングなので)オンラインだけど海を超えて色々な場所の人と繋がっている感覚は身体と場所(今年のテーマ)を考える上でも大きなポイントになってくるんじゃないのかなと思ったり。

みんなで幸田文の『崩れ』を読んでいてそれぞれ気になった箇所をNotionにアップしてそこを一人一人が朗読する会だった。同じ箇所が3-4回マークされてたところとかは違う人が毎回読んだけど、どれもとても印象が違って不思議だった。同じ箇所なのに全然違う段落を読んでいるみたいで、どの言葉に重みがあるのかとかどこで切るのかみたいなところにその人の雰囲気が浮かび上がってくるみたい。あとは朗読を通して目で追って読むだけとはまた違った感覚の生々しさみたいなものが浮き彫りになってきたよう。幸田文自身の文体がとても五感重視な印象だったので声に出すことで余計にそう感じたのかもしれない。

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考えや思想みたいなところに身体的な感覚を持ち込むことに最近すごく興味があって今日も久しぶりに日本にいる友人と近況報告しながらこのテーマについて話していた。

伊藤亜紗さんの研究とか話にはずっと興味があって今私は「利他」とは何か、を読んでいるんだけど友人は雑誌ちゃぶ台の藤原辰史さんと伊藤亜紗さんの対談を紹介してくれた。特に動詞、名詞、形容詞で考える人たちについての話が身体に繋がってくるな、と。あとは食についての話がとても新しくて(新しくはないんだけど原点回帰みたいな感じ?)全盲の人の食べ方とか焦点の違いとか食べるという行為の凄さ(身体の中に異物導入という日常)とか。そこから料理とかの身体性についても話していた(料理ってものすごい情報量だよね、と)藤原さんは最近お気に入りのポッドキャストD-Radioのゲストの一人として参加していて永井玲衣さんと後藤正文さと一緒に潔癖性、暴力と反暴力、暴力の隠蔽、言葉の暴力性とか面白くてタイムリーなことについてたくさん話している。

アカデミアとか思考が優先してしまう場所にどうしたら身体を持ち込めるか、と友人の研究の方向性とか姿勢を聞いてて一緒に考えていた。痛みについての共感とか繋がりを考えていて私たちは相手の痛みを決して理解することはできないけど、自分の体のキャパシティが許す限りの痛みは体験することができる。どうやったらお互いの痛みの共鳴ポイント、繋がりを特定できるのだろうか。それで決して理解できたとは言わないけど痛みの存在を認めて何らかしらの形で「そのまま」を記録することはできないだろうか、という問い。

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大学の課題が終わってライターの仕事を再開したけど前ほど楽しめていない感じがある。もっと深堀りして背景とか社会構造に迫っていくものが書きたいなとかわがままなことを考えてしまう。表面的とまでは言わないけど読みやすさとかキャッチーさを追求されてしまうのは今の社会で仕方のないことだと割り切っていくべきか。他にはもっと人とコラボレーションしたプロジェクトとか議論に取り組みたい。もっと自分の興味のある都市や社会や情報の繋がりみたいなところの資料を読み漁りたい。そもそも書くって何だろう。そこまでして続ける必要のあることなのかなとか思ってしまう(プログラミングのサイトをライターリサーチの傍に置いて横目で見ながら)(生活があるので書きますが)

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 今日は夕飯はサラダを作る予定。
ほとんどの野菜を生で食べるわけなので調理はほとんどないんだけど同時に鶏肉を焼いたり玉ねぎを塩で揉んで水気と辛味を取ったりドレッシングを計量して合わせたり野菜を洗ったり。混ぜるだけ、では済まされない狭くて大きな複雑な世界だ。

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