映画×音の埋める世界
是枝監督の作品に溢れる音たちが大好き
聞こえなくてもそこにある音
映画について考えるとまず浮かんでくるのは音。
音というのは不思議なもので、普段周りに常に溢れているのにその世界をあまり集中してみることは少ない。音楽みたいにひとつの作品として聞くことはたくさんあるのに日常に溢れる足音とか風の音とかカーテンが揺れる微かな囁きとか人の声が雪だるまみたいに大きくなって広がっていく人混みの中とか。台所から聞こえる鍋のカタカタ。車のエンジン。子供達の笑い声。夜の静けさに宿る沈黙の大きさとか。
日本語には「音」を表現する言葉がたくさんある。 なんて繊細で美しい言語なんだろう。でも同時に言葉で表してしまえることが多すぎるのかもしれない。それは情緒豊かな文章を生むかもしれないが、紙に書き連ねられ、しまわれてしまう。
音は体験。
身体すべてで受ける。
音は体感であり、それはまるで降ってくる雨。
そのまま自分をさらっていく風。
音は見えないのに当たり前みたいに直接的に入り込んでくる感覚。
映画に溢れるすべての音が好きだ。
「生きてる」という感覚とまっすぐにつながっているこの現象、物理的ではないのにこんなにも存在感を誇る存在はどこまでもついてくる。静けさの中で目を閉じと心臓の音がやけに大きい。個人が感じている音の感覚をも汲みとれるものがもしかしたら映画の音の極地なのかもしれない。
それは実際的に画面から音が溢れていなくてもその場に存在している音をこちらまでが感じ取れるという場所。
そんな映画の音を求めながら、今日もまた映画を観る。
耳を澄まして。