記憶の不安定性と写真

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前だけを見て歩いていきたいなとばかり思っていた

よく作家さんたちが自分の子供時代をまるで記憶のビデオカメラを再生しているような細かさで説明するたびに私の中では疑問が浮かぶ。

 

その出来事に付着したエピソードや心情はどんな風にして彼らの中にとどまっていたのだろうか、と。時が経ってからしか分かり得ない当時の解釈などもすべて包括しての「記憶」となるのか。或いはその時の思っていたモヤモヤした言葉にできなかったものたちが長年の経験と知識と知恵との組み合わせで言語化することに成功したというのか。

 

自分のことで考えると子供時代でそんなにくっきりはっきりと覚えているエピソードは両手で(もしかしたら片手かも)数えられるほどしかない。それは私の記憶力や注意力の問題なのか。それとも過去から逃げたくて忘れようとしたのか。それは誰にもわからない。子供時代は良い時もあったが大変だったとか、怖かったみたいなモヤモヤが結構ある。それもあってかあまり思い出したり考えたりしたくない。その再現の機会の少なさも影響しているのかもしれない。

 

楽しかったり美しいと感激したり美味しかったなというふわふわした記憶もある。それらに物語や立体感を与えるのは「写真」だ。

 

元々父母ともに写真を学んでいたり写真関係で働いていたというのもあるのかもしれないが我が家で写真は圧倒的な存在感を誇っていたと思う。イベントだけではなくて日常の感覚を刻んだような写真が多くあった。写真とは不思議なもので、覚えていないはずのエピソードを新しく記憶に加えるという魔法をとても簡単にかけることができる。

 

記憶の中には塵のようにかすかに残っている、記憶と呼んでいいのかと問いたくなるくらいに抽象的なものたちが写真に触れると姿を変える。それは鮮明な記憶となって、エピソードと共に語られる。

 

写真がなかった時代はどうやってこれらの記憶をとどめていたのだろうか。その時代の多くは優れた記憶力を保持していたのか。

 

記憶は嘘だと思うようになった。捏造できるし、消したり上書きしたり、それはもう自由に創作することもできるよ。そんな記憶と共にあるのがなんでも、そのまま瞬間をとどめた写真ではないか。視覚の力は強い。

 

記憶は拙い。

人間自身はとても脆くて不安定で思っているよりも嘘を

信じて生きているんだ。それでもいいよね。きっと。

 

 

mugiho