歩き「続けていく」ことはつまり、揺らいでいくことでは?

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Death of a Flower

 

過去の自分の書いた記事や文章を読むと、あの時はこんなにも苦しんでいて、いまも同じくらいに苦しいけど何だか少しちがう、と思えることがある。

それは成長したからとかそんなに気軽に思えることではない。

それはもっと確かになってきた、感覚。 まだまだ迷うことばかりの毎日は続き、朝起きることはいまだに辛く、先行きが見えない日々が続いている。

 

ただ、それをもが私という人間を構成しているんだよ、という小さな開き直りと理解がある。それがあるのとないのとでは心の回復度が全然違うのだ。

 

落ち込む時はひどい。

世界のどん底に蹴り落とされて、もう生きられないんじゃないかってくらいに辛い。そこは暗くて寒くて苦しい場所だ。もうこのまま目を覚まさなくてもいいよな、と思うくらいである。眠りについている方が楽だ。

 

そんな一日をなんとか歩き通す。 音楽と言葉と写真に頼る。月日が経って、昔と違うのは心を支えるつっかえ棒が少し増えたことだろうか。この世界にはさらに美しい星空があることを知ったことだろうか。人はある時はとても残酷で、そして同時にとてつもなく美しくあれることを体感したことだろうか。

 

どん底と中道の間を揺れ続ける毎日は振れ幅と言えるほどに均等に振れているのではなく、マイナスからへの真ん中までへの回帰という楽しい人生とは程遠いんだけど、でも。それでも私は歩いているんだよ、歩くのをやめていないんだよ。と叫びたいよね。

 

歩いても歩いてもたどり着ける場所があるのかはもちろんわからない。 それでも歩き「続ける」という行為自体にそもそもの意味があるとわたしは信じ続けたい。無謀な希望かもしれないけれど、その不確定要素こそがたぶん人生というものであって、その揺れ、時折巻き込まれる荒波に揉まれながらも、まだまだ生き続けていくこと。

 

人間との距離感は相変わらず遠くて近いし、まともに目も合わせられない日もあるよね。それでも街へ繰り出し続けるのは、やっぱりなんだかんだ、人間はとてつもなく奇妙で不器用で面白くてわたしはそれに惹かれ続けている。

 

いいよね、それでも。

 

日常を歩き通して、次の日の朝また歩き始めて、街を歩き周って、人間を観察して、落ち込んで絶望して闇の中を歩き回って、気づいたらまた太陽の下を歩いている。

 

それでいいんだよ。

 

 

mugiho