恐怖と寂しさ、それは結局人との繋がりに回帰するのか?

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恐怖というものと常に戦っている気がするのは気のせいですか?

一歩外の踏み出せば見たくもない人からの視線を感じ、ものすごい勢いで

通り過ぎる自転車や車に轢かれそうになったり、どこまでも続いているはずの

人生という未知の道にどうすればいいのかわからなくなったり、決して今日も

一日安全に過ごせるという保証なんてどこにもないし、それはまさに運である。

 

私はとても怖がり。

そしてとても寂しがり。

一人で入ることに慣れているはずなのにそこにはたまにとても寒くて冷たい風が

吹きます。それはどこから、どのように吹いてくるのかは全くわかりません。

 

ただわかることはとてもとても寂しいということ。

 

人といても、何かをしていても、時と場合と精神状態に関係なくぐわっと

襲いかかってくる。それはどこに行っても消えることのない自分。常にそこに

いて今か今かと自分の出番を待っている。それはあまりにも突然にやってくる。

孤独であることは、マイノリティであるということは、属することができない、

社会のある一定の集団に所属することができないということは、なぜこんなに

悪いことであるかのように見られるのか。結局人間は自分の中には自分という

存在が一人いるだけであって、元々一人なのだ。それなのに周りにいる多くの

集団は、一人でいることがまるで罰かのように、いじめ、蔑み、せせ笑う。

 

中学の時はあまりにもそれが怖くて、私は自分を見失った。

結果として自分は完璧にクラスから孤立した。それからは周りに溶け込む努力、

術なんかを学んでいった。でもそんな上辺だけの関係の中には、消えることのない

寒くて寂しい心があった。それはいつもいつも私に聞いていた。あなたはこのまま

仮面をつけたまま、自分でも自分が誰なのかもわからなくなりながら生きていくのか。

 

その問いにまた怖くなった。

それこそ恐怖の連鎖だ。それはとどまることを知らずに永遠に連なる。

元々恐怖は本能的に生き延びるための手段であった。一人で彷徨っていては

動物に襲われ、一人で弱って死んでいくことであっただろう。でも今は違う。

何もかもが手の届く範囲にあって、一人で生きていくことはとても簡単になった。

 

だがそこには常に「人」がいる。

それは常につながっているような錯覚に陥るネットであったり、外に出なくても

行きていける環境が成り立つ社会の構造とその仕事をこなす人たちの営みであったり。

 

結局「人間」で始まった恐怖は人間の必要性へと戻ってくる。

だから最初に話した恐怖というのは、孤独感というのは、人がいるが故に

成立するものなのだろう。これについては大学が始まった4月にそうか、と気づき

それ以来ずっと考えてきた。言葉にするとあぁ当たり前じゃないかと思うけど、

頭の中でこの考えをぐるぐるしているとなんだか重大なことのように思えてくる。

 

人の孤独は常にもう一人の相手が存在しているという相対的な関係の上に

成り立つものである。だから孤独や一人の恐怖というのは人との繋がりと紙一重。

 

結論はまだです。人と会って、孤独感を味わい、毎日を積み重ねながら、

少しずつ何かが見えてくるかもしれないし、何も見えないかもしれない。

でもそれらは決して無駄なことにはならない。それだけは自分で信じる。

 

この季節は寂しさを誘います。明日からの日々は恐怖をもたらします。

それでも自分で選んだ道。とても簡単に諦める気にはなれません。

 

 

muuu