書くことの根源=言葉とは 『言葉が鍛えられる場所』平川克美
書くことって何なのかな。
ブログを書くことって。人の目につく場所に自分の言葉を散らすことは何を意味していて、自分はそれを通して何をしたくてどこへ行きたくて、今日も明日も昨日もすべて言葉で表してしまえると思っていることは、結局は言葉なんかでは到底到達できないところにある。
そんなことを思い悩む日々。
『言葉が鍛えられる場所』平川克美を読み終えた。
終わった時の心の平穏さといったら。これを読んでしまった私はこれから言葉とどう向き合っていけばいいのだろう、という問い自体に何か書くことの意味が伺えるような気になった。
たった18章しかないのに、この中には著者が歩いた言葉の道が、その足跡がくっきりと刻まれていて私はそれを辿るだけの旅人なのだが見える風景に圧倒される。言葉はこんなにも遠く離れた場所にあって、そして何かを言いたくて言いたくてたまらない時になんて無力で、それでもその言葉を紡いでいこうという覚悟を持つ者たち。死者たちの代弁者。日本にはこんな言葉にならない言葉を書く人々がいたのかと感動する。
ここに多く登場する詩人たちは戦後の荒れ地を歩いてきた者たち。
生きるとか愛とかそんな綺麗な言葉では覆い尽くしきれない世界を歩いた者たち。彼らのむき出しになったビリビリの心から滲み出る血のようなその言葉は、果たして言葉なのだろうか。
言葉が鍛えられるのは、ほとんどの場合、言葉が通じない場所においてなのです。「鍛えられる」とは、やや奇妙な言い方ですが、言葉というものが、単なる情報交換の道具であることを超えて、複雑な色合いや、含みを持って輝き出すことがあるということです。そのとき、ひとは初めて、言葉というものが案外複雑なものであり、一筋縄ではいかない厄介なものであることに気付きます。言葉か何かを明らかにするよりは、何かを隠蔽することもあるのです。いや、こちらの方が、言葉の本来の役割であるかのように感じるときもあります。
そういう言葉の不思議さについて思いをめぐらし、挫折を繰り返しながら、言葉に生命が吹き込まれるということがあると、わたしは思います。 pg. 242 『言葉が鍛えられる場所』平川克美
そういえば、石井ゆかりさんの水瓶座の週報を読んでいたらこんな言葉に出会いました。
先週も「理解」のことを書きましたが 今週もまた、暗いトンネルを脱出するような 光に溢れる「理解」の瞬間がめぐってくるかもしれません。 私たちは所詮、誤解と思い込みの世界を生きていて 本当に他者とコミュニケーションを通して解り合える、なんて 絶対に不可能なのだ と言う人もいます。 多分、そうなのかもしれません。 でも、私たちはたとえ思い込みのなかであっても 他者と「わかりあえた!」という感動を生きる生き物なのだと思います。 そしてひょっとすると、 本当にわかりあえたかどうか、ということ以上に その感動こそが 私たちを結びつけているのかもしれません。
2017/5/1-5/7 水瓶座の空模様 - 筋トレ週報
言いたいこと、情報云々ではなくてその内容と内容の間に存在する人間とつながっている感覚と生きていくということか、そうか。かなり納得。
なんて本を読んでしまったのだろう。
なんて詩人たちに出会ってしまったのだろう。
そんなことばかり。
mugiho