平成が終わるからなんていう理由で。

平成が終わるからなんていう理由でわたしはブログを再開する人間だったっけ。年末年始、誕生日。引っ越し。わたしの人生に到来する節目に書かれる文章たちはみんな、あまりにも薄っぺらい。当たり前だ。年に一回のそれぞれの記念日にそれまでのまとめを一気に書くようなものだから大したものは出てこない。そんなの当たり前だよね。夏休みの終わりにまとめて書く一行日記レベルだ。

 

と言いながらもこうして平成の終わる日にわたしはワードを開いて黙々となにを書きたいのかもわからないままこうして打ち続けている。

 

平成8年に生まれたわたしは結構この世代のはじめの方だなと思いながらいつも日本の諸手続きで平成で混乱していたのを思い出す。平成8年は4桁の西暦に比べたらあまりにもさっぱりしていて、ましてや一桁の平成序盤生まれのわたしはいつもその空白に面食らっていた。

 

わたしの人生はちょうど2/3ほどが日本。それ以外が南半球という微妙な年数だ。少しずつ長くなってくるこちらでの生活。ときどきふと浮かんでくる日本の風景との重なりはたまにどうしようもなくわたしの心をかき乱す理由はいまもわからない。

 

日本には戻る実家もなければ家族もいない。だからと言っていまいる国だってギリギリなんとか学生ビザで滞在しているだけで、わたしにはここという帰れる場所はない。日本で暮らしていたときも、ここに暮らしている今もわたしは家なき子であり、それはたぶんしばらくは変わらないと思う。

 

中学、高校生の時はあまりにも社会や学校という場に馴染めくて日本という国の文化のせいにしていたけどいまここでこうしていろいろ悩んで鬱々している状況を考えてみると日本でもここでもあまり変わらないのかもしれない、と最近思う。

 

暮らしている環境はだいぶ違えど、わたしは日本で日本人の両親の元に生まれ、そして「わたし」となった。パスポートは日本だけど、わたしはわたしである。

 

平成が終わる今夜、特別なことは思えない。
でもこの節目を意識できるのはきっとわたしにも少しは日本という国との繋がりがあるからであって、きっとこれは死ぬまで消えることはない。

 

わたしが訪れた場所、暮らした場所たちはわたしの一部となって「わたし」としてこの宇宙に存在していて、平成は終わってしまうけど明日はいつも通りにやってきて、この国の人たちはいつも通り生活を続けるし、きっと日本にいる人たちだっていつも通りに生きていくんだけど、こうして何かが大きく切り替わる瞬間にわたしは存在していたんだと思うとなんだか不思議だよね。

終。