世界観の違いとはなにか『読書について』小林秀雄

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いましばらく考えていた「世界観の違い」の類について書き連ねているのですが、読んでの通りなんだかリズムが敬語なのです。いままではこんな文章書いたことも書こうとも思ったことないのですが、いま書いているエッセイ、気づいたらこんな感じになりました。

 

小林秀雄の『読書について』を読んでいるのですが、その中に「書くことと喋ること」という章があります。喋ること、書くこと、グーテンベルクの大発明以来それぞれの担う役割が大きく変化し、そのもの自体の在り方が変わりました。

 

今日の様な大散文時代は、印刷術の進歩と話しては考えられない、と言う事は、ただ表面的な事ではなく、書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。

 

 

 

書物の担う役割、昔は空で覚えていた事柄を確認するための一種の道具でした。それが現代、巨大な資本主義マーケットにおける商品となり、それによってそれらを書く「作家」という職業そのものも変わりました。同じものであるのにその「意味」というものは歴史という時間の世界の違いによってまったく違うものと化する。世界観の違いはなんでも、違う人間同士という意味だけではなくて文化や時間など決して数字では測ることのできない存在の中にもたくさんあるのです。

 

“作家は自分の裡に理想的読者を持つ。書くとは、自ら自由に感じ考えるという極まり難い努力が理想的読者のうちで、書く度に完了すると信ずる事だ。” - pg105-106

 

“印刷の進歩は、文章からリズムを奪い、文章は沈黙してしまったと言えましょう。散文が詩を逃れると、詩もまた散文に近づいてきた。” pg110

 

“散文は人の感覚に直接訴える場合に生ずる不自由を捨てて、表現上の大きな自由を得ました。” pg110

 

 

特定の時代にしか生きることのできない私たちはひとつの価値観を得ます。時代を超えてその時の感覚をそのまま体験することというのはとても難しいものです。いくら技術が発達してその時代をうまく模倣して再現することができたとしてもそれはどうしようもないくらいに空っぽで違うものになってしまいます。その時に生きていた人たちの現実は永久にそこにしかないもので、その時の時代性・政治・文化などから空気や気候まで。それはその瞬間にしかあり得なかった世界です。そんな違う世界、そのひとつ前の時代、あり得ないと思うその感覚はその時代を生きる人たちにとっては疑いようもない真実であったのです。

 

世界観の違いはいまだけに起こるものではなくてあらゆる次元、物理的、精神的、時間的な世界で同時に起こっているものなのです。世界の違い、についてしばらく書いていたら小林秀雄の文章にぶち当たり、しばらく考えていました。

 

世界が違うから面白いんだよな、と私はよく思いますが時には素直にそう思えない、自分に不快な世界を垣間見させられるとそれは違うと思い切り反論したくなる時もあります。きれいに理論や信念通りに自分は動けると信じていても人間、感覚や思いに触れる何かには大きく反応してしまうものです。

 

と、そんなことを連想させながらこの世界、やっぱり広いなとその壮大さに圧巻と恐怖を抱きながら生きてます。

 

mugiho