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隣に立つ自分をみる自分

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毎晩こうして記事を中途半端なところまで書いては下書きに保存してっていうのを

永遠に終わらないループみたいで(そもそも永遠なんて言葉の信憑性なんて誰にも

わかりやしない)それでもこうして中途半端な言葉を書きあげるためにこうして

パソコンの前に座る自分を外からみてなんとも言えない不思議な変な気分になるんだ。

 

こうしてどこまでも自分という存在を客観視しているかのような錯覚に陥るんだけど

結局それを客観的にみていると思っている自分も自分であるわけだしだから自分から

ずっと逃げることのできないままひたすらこうしてぐるぐる同じところを巡るわけだ。

 

毎日こんなことばかり思っていてなにが楽しいんだろうと自分に聞きたくなる。

でも自分はこれこれこうだからこう感じていてこうなんだよなんて答えをくれない。

本当に客観視というものができる人はこうして自分から自分を分離できるのかも

しれない。けれどもそれも結局は自分なんだから客観視だなんてことは不可能

なのかも。そんな風になるとでは周りの意見を聞いたほうがいいのか?周りが持つ

自分に対してのイメージというものが自分なのかという問いを思うがそれはまた違う。

外から見える自分はもちろん自分には見えなく、その周りの人たちのレンズから見る

「自分」というキャラクターがある。だからもしかしたらそのレンズの種類や色に

よってそこに浮かび上がってくる自分はそれぞれ違うのかもしれない。それらの

ばらばらの自分のピースをひとつのものに固めてみると、少しは自分というものに

近づくことができるのかもしれない。つまりすべてが自分でどれが本当の自分、

嘘の自分なんてものはないんだと思う。どれも自分の一部で少しは自分の要素を

含んでいて、周りによってはカラーが変わるかもしれないけどそれは周りであって

自分ではないから結局はまた自分だっていうところに落ち着く。

 

自分というものを意識しすぎて(よっぽど自意識過剰なんだろうか)、すべてを

常に細かく見すぎてとにかく近視眼的になってしまうこの性格なのかなんなのか。

 

自分がなにをしたいのか。どこへ行きたいのか。どんな風に生きたいのか。

そんなことを日々心の中で問いかけ、外を歩けば新しい風にあたり、本を読めば

知らない偉人の言葉をもらい、映画を観れば想像もし得ないような新しい場所や

視点に入り込み、音楽を聞けば音からたくさんのイメージが通り過ぎていく。

歩けば足を一歩一歩前へと自然に繰り出していて、一段ずつ階段を上っている。

 

もっと距離を置いて、遠くから見つめて、自分が自分を見ていることが

わかっている自分がいてもいいからもっと自分に優しくなって、仲良く

してほしい。常にこうしてたくさんの自分同士で戦っていると必要以上に

疲れてしまうし自意識過剰になってしまう。時には我を忘れるくらいに何かに

熱中してみたりひたすら歩いてみたり音楽の音の一音一音に集中してみたり

その目の前にあるなにかしらに全身全霊を傾けていくこともひとつの方法。

 

たくさんの生き方があって、たくさんの自分がいて、違う時間に違うことを

違う方法でしていても別にどれも間違いではなくて、答えはなくて、そこに

あるのはただ自分という存在の隣に立つ自分で、一緒ににこにこ笑っている。

 

 

muuu