字に滲み出るなにか

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書くことが大嫌いだった大きな理由のひとつに「字が下手」だからというものがあった。いまでもこれには結構悩まされてしまう。日本語も英語も同様に下手だ。見た目が崩れている?要するにバランスが悪いのだろう。

 

それは元々の感覚の問題なのか遺伝なのかさっぱり原因はわからないが、小学校からずっと言われ続けてきた。習字の時間は苦痛だし教室の後ろの壁にずらっと同じ文字を書いた半紙が並べられるのが嫌でたまらなかった。

 

下手な字は逆に目立つのだ。

紺色の台紙の上をペラペラはためく字たちはとても寂しそうで、自分の字だけそのまま飛んでいけばいいのにってよく思っていた。

なんだか変。遠くから見ても一目瞭然でわかるのだ。

 

字なんて所詮道具なんだからと思ってきたけれど時々無性に自分の書いた字を眺めては絶望してしまう。もう少しコンパクトだったら。もう少しすらっとしていたら。考え始めるとキリがない。

 

それでも毎朝書くのだ。

ノートを開いてこの下手な字で書き連ねる。

その時の至福は変えがたい自分の思いや考えが物理的に空間に存在する瞬間であってもうそれだけで胸が高鳴ってくる。字は上手い下手に関係なくそこに人の心が乗り移るのだと思う。そうでなければ手紙とメールであんなに喜び様が変わるわけがない。

 

そう、手書きは一度書かれたらそれはもうひとつの命として動き始めるのだ。

今夜も明日の朝もペンを右手に持って紙の上を滑って滲んでいくインクに思いが染み込んでいく。

 

mugiho

 

 

 

 

書くことの根源=言葉とは 『言葉が鍛えられる場所』平川克美

 

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書くことって何なのかな。

ブログを書くことって。人の目につく場所に自分の言葉を散らすことは何を意味していて、自分はそれを通して何をしたくてどこへ行きたくて、今日も明日も昨日もすべて言葉で表してしまえると思っていることは、結局は言葉なんかでは到底到達できないところにある。

 

 そんなことを思い悩む日々。

『言葉が鍛えられる場所』平川克美を読み終えた。

終わった時の心の平穏さといったら。これを読んでしまった私はこれから言葉とどう向き合っていけばいいのだろう、という問い自体に何か書くことの意味が伺えるような気になった。

たった18章しかないのに、この中には著者が歩いた言葉の道が、その足跡がくっきりと刻まれていて私はそれを辿るだけの旅人なのだが見える風景に圧倒される。言葉はこんなにも遠く離れた場所にあって、そして何かを言いたくて言いたくてたまらない時になんて無力で、それでもその言葉を紡いでいこうという覚悟を持つ者たち。死者たちの代弁者。日本にはこんな言葉にならない言葉を書く人々がいたのかと感動する。

 

ここに多く登場する詩人たちは戦後の荒れ地を歩いてきた者たち。

生きるとか愛とかそんな綺麗な言葉では覆い尽くしきれない世界を歩いた者たち。彼らのむき出しになったビリビリの心から滲み出る血のようなその言葉は、果たして言葉なのだろうか。

 

言葉が鍛えられるのは、ほとんどの場合、言葉が通じない場所においてなのです。「鍛えられる」とは、やや奇妙な言い方ですが、言葉というものが、単なる情報交換の道具であることを超えて、複雑な色合いや、含みを持って輝き出すことがあるということです。そのとき、ひとは初めて、言葉というものが案外複雑なものであり、一筋縄ではいかない厄介なものであることに気付きます。言葉か何かを明らかにするよりは、何かを隠蔽することもあるのです。いや、こちらの方が、言葉の本来の役割であるかのように感じるときもあります。

 そういう言葉の不思議さについて思いをめぐらし、挫折を繰り返しながら、言葉に生命が吹き込まれるということがあると、わたしは思います。 pg. 242 『言葉が鍛えられる場所』平川克美

 

そういえば、石井ゆかりさんの水瓶座の週報を読んでいたらこんな言葉に出会いました。 

 

先週も「理解」のことを書きましたが 今週もまた、暗いトンネルを脱出するような 光に溢れる「理解」の瞬間がめぐってくるかもしれません。 私たちは所詮、誤解と思い込みの世界を生きていて 本当に他者とコミュニケーションを通して解り合える、なんて 絶対に不可能なのだ と言う人もいます。 多分、そうなのかもしれません。 でも、私たちはたとえ思い込みのなかであっても 他者と「わかりあえた!」という感動を生きる生き物なのだと思います。 そしてひょっとすると、 本当にわかりあえたかどうか、ということ以上に その感動こそが 私たちを結びつけているのかもしれません。

2017/5/1-5/7 水瓶座の空模様 - 筋トレ週報

 

言いたいこと、情報云々ではなくてその内容と内容の間に存在する人間とつながっている感覚と生きていくということか、そうか。かなり納得。

 

なんて本を読んでしまったのだろう。

なんて詩人たちに出会ってしまったのだろう。

 

そんなことばかり。

 

mugiho

 

 

雨が降るとき

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まず、朝焼けがとても綺麗。

朝6 時半に玄関を開けて、ふたつめのドアの先に日の出の方向が見えるのだけど、空が真っ赤に染まっている。ピンク。紫とグレーが混ざっている。太陽自身は見えない。街への橋を渡るときに左手に広がっている海はいつもよりとても明るくて、そして暗い。真っ黒に見えるんだけど、分厚い雲のすきまから漏れ出した太陽の光が左前方に見えるビルに反射して、それが水面に映る。そうするとそこだけが照らされて、それ以外の周りの空間はますます暗闇に沈んでいく。

 

外を歩くと空気に独特の匂いがある。

いつもよりも少し重めの空気。厚みがあるとでも言うのか。朝がそこまで寒くない。よどみはないものの秋晴れの朝のシャキッと感がない。

 

空は曇っていたり、曇っていなかったり。

雲があっても、その後ろに佇む太陽の存在を感じることができる。

それはまだ朝だから。

 

夕方になると太陽を追いかけるようにして、深い紫色の、ほとんど黒に近いような雲が隈なく空間を塗りたくり始める。日の入りはあっという間で、気づけば空は夜の暗さではなくて、雲に覆われて真っ黒になる。

 

夜は、星の見える黒い夜空ではなく、何かがそこにあると言うのがわかる暗さだ。プラネタリウムとか迫った空間のようにスケールがあるんだけど、でも何かが空間を止めている。それが見えなくてもわかる。その感覚を味わう。ドームの下に立っているかのような感覚を吹き荒らして、屋外に立ちながらその圧迫感を味わい複雑な心を持つ。

 

布団に入ると、風が一気に強くなったのがわかる。吹き付けてくる。窓のあらゆるすきまから何かが入ってくる。表面に叩きつけてくる、粒。電気を消した部屋で天井を見上げながら上にいま降り注がれている涙が、そのまま屋根を貫通して自分の直接降ってくるような。

 

ほら、雨だよ。

 

mugiho

 

映画はつまり愛

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映画を観るのが怖くなる時がある。

その理由についていろいろ考えていたのだが、これと

言った答えにんたどり着かないまま夜になってしまった。

 

映画とはなにか。

そこから問い始めるともうどこから始めてどこで終わればいいのか到底わからないからいま自分の範囲での映画の存在について思うと、それは自分の一部であり日々の糧であり、世界への架け橋と窓であり、そして自分自身の井戸へ降りていく階段である。

 

知らなかった世界はなにも外的なものだけではなくて、実は一番自分の中にあるのかもしれない。そう思うとき、映画を観ているあるシーンに瞬間的に浮かぶ感動とか嫌悪とか喜びとかその他言葉では覆い尽くしきれない想いたちはきっとその知らなかった自分の一面をどんどん引き出してくるのだと思う。あったのに気づかなかったものを見せてくれる、どんどん内と外へと広がっていく世界はたぶん一度ぐるっと回ってつながっているんだろうなと思う。

 

それではなぜ怖くなるのか。

理由もなく、これを観たら何かが変わってしまう、そんな気がする時がある。観進めていくとどんどん自分の中で何かが進行していくのがわかる。自分自身にとっても未知だからどう表現すればいいのかわからない。いままで知っていたことが、価値観がガラガラと音を立てて崩れていくような。逆にとてつもなく懐かしくて、いつかどこかで体験した、そんな確信が溢れてくるとき。一瞬怯む。いつもの自分ではない。映画には人を変えてしまう力がある。しかもそのきっかけとかトリガーは十人十色であり、公式化することができない。その一秒だけの光や影であったり、仕草や視線だったりする。わからない。

その未知に対する恐怖なのかな。

 

でも観終わってたとえば誰かにその映画について話してみる。当たり前みたいにそのわからない何かを言葉にしてくれるときがある。知っている人がいる、隣で同じ方向を見つめている人がいる。

 

 

愛は、お互いを見つめ合うことではなく、

ともに同じ方向を見つめることである。

 - サン=テグジュペリ

 

 

こんな言葉があったよね。

 

つまり映画は愛。

 

 

mugiho

 

ループのシャッフル

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好きな曲をかけよう。

と思いながらシャッフルをして、気づいたら好きな曲になっている。

無意識にプレイリストを飛ばしていたみたいだ。

結局はこの音に落ち着くんだ。とバスが来るまでの13分間ひたすら同じ曲を聴き続ける。一曲が3:30だから約4回ループする。

 

それなら最初からその曲だけをかければいい話じゃないかって思う。

ちがうんだ。好きな曲たちを並べたその中からまたその一曲をかける。

それにこそ価値がある。意味が生まれる。音と想いが溢れてくるんだ。

 

今朝は異様に寒い。

少し風が吹けばガクガク震えるのも簡単だろう。というくらいに。

それなのに空は数日前の同じ時間よりもずっと明るい。なぜだ。

冬という夢に向かっているというのに。日の出はどんどん遅くなって、日の入りは早くなって夜が長くなって、星たちがより明るくなるのではないのか。

 

朝がまだ始まっていないというのにもう既に夜の心配をしてしまう。

星が良く見えるかどうかを朝と日中の晴れ具合でつい考えてしまう。

 

また同じ曲のはじめに戻った。

振り出しではないのだ。

同じループ上のひとつだけ上の段に移動している。

そうやって少しずつ、螺旋を描いてのぼっていく。

 

明日もシャッフルをしよう。

ループのシャッフルを。

 

 

mugiho

 

時間に置いていかれる恐怖

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時間に置いて行かれるのが怖い。

永遠に続くと思っていた小学生の頃の夏休みとか。

進路について希望を迫られる(それってそもそも希望なの?)と

選択にかける時間というものがもう残りわずかなことに気づくときとか。

怖くて怖くて走り続けて来たけど時々ふと立ち止まってみて、

ああ自分はまだこんなところまでしか来ていないじゃないかという絶望。

 

時間は平等だというけれど、それは生まれた育った環境とかそれぞれの

バックグラウンド、暮らしによって大きく変わってくると思う。

つまり時間は平等なんだからそれは個人の選択や意識の問題だという人たちは

自分たちは元々時間を自由に動かせる場所に立っていて、そこから暮らしの

ためだけに働いてそこから倒れるように眠るその他大勢とはまた違うということ。

 

その恐怖とどう向き合っていけばいいのだろう。

概念だけである時間なのに、なんでこんなにもすべてを握っているのか。

ここ最近は自分がこうして選択してきたことがどうしても

間違っているかのような気しかしなくて、この落ち続けていく心を

どうすればいいのかともがき続けている。

 

時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
 なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。

『モモ』ミヒャエル・エンデ

 

こんな風な時間の概念を世界中に塗りたくりたい。

なによりも自分自身に。

 

 

mugiho