永遠に同じ曲を聴いていられるタイプなんだ。

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一度自分の感覚やリズムに編み込まれてしまうとその音は自分の一部となる。

 

自分の中に形成途中のところに絶妙なタイミングで潜り込んでくるとき。

全く外から予想もしていない時にふと落ちてきた音がそのまま新たな部分として自分にくっついてそのまま共に風化していくとき。

 

音楽と出会う方法が時代の流れで著しく変化したいまでも変わらないのは音楽が私たちの元にふと(なんらかの形で)やってきて感覚や在り方に寄り添って、そしてそのまま「わたし」の一部となっていくということ。

 

どんな時代に何をどう聴いていよう、どこから聴こえてこようと音楽はある特別な瞬間を拾い上げてふと私たちの遺伝子の中に放り込まれてしまう。そうしたらもうそれは単なる音楽とかお気に入りの曲とかそんな言葉では言い表すことのできない存在になる。

 

そんな音楽と出会う機会はこの一生に何回くらいあるのだろうか。

 

考えながらこの記事を書くのに既に7回リピートした曲がある。

あらゆる音楽が生み出され「消費」されていくこの世界でそれでも少し時間が経って興奮が収まって霧が晴れて意識がはっきりしてきた時に向かう場所が、向かう音楽がある。

 

それが永遠に聴いていられる一曲。自分のリズムの一部。

 

mugiho

 

 

映画×音の埋める世界

 

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海街diary是枝裕和(2015)

 

是枝監督の作品に溢れる音たちが大好き

聞こえなくてもそこにある音

 

映画について考えるとまず浮かんでくるのは音。

 

音というのは不思議なもので、普段周りに常に溢れているのにその世界をあまり集中してみることは少ない。音楽みたいにひとつの作品として聞くことはたくさんあるのに日常に溢れる足音とか風の音とかカーテンが揺れる微かな囁きとか人の声が雪だるまみたいに大きくなって広がっていく人混みの中とか。台所から聞こえる鍋のカタカタ。車のエンジン。子供達の笑い声。夜の静けさに宿る沈黙の大きさとか。

 

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世界観の違いとはなにか『読書について』小林秀雄

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いましばらく考えていた「世界観の違い」の類について書き連ねているのですが、読んでの通りなんだかリズムが敬語なのです。いままではこんな文章書いたことも書こうとも思ったことないのですが、いま書いているエッセイ、気づいたらこんな感じになりました。

 

小林秀雄の『読書について』を読んでいるのですが、その中に「書くことと喋ること」という章があります。喋ること、書くこと、グーテンベルクの大発明以来それぞれの担う役割が大きく変化し、そのもの自体の在り方が変わりました。

 

今日の様な大散文時代は、印刷術の進歩と話しては考えられない、と言う事は、ただ表面的な事ではなく、書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。

 

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